東日本大震災から今日で3年の月日が経ちました。

ご家族・友人・知人を失われた方、今も避難生活を余儀なくされている方に、心よりお見舞い申し上げます。


―――あの日のあの時間、私は工場で仕事をしており、プレーナという板を加工する機械を使っていました。
機械に通されている材を見ていると、「どうも機械が揺れているな、いや、立ちくらみか?」
しかし天井から下がっている電灯に目をやると、電灯を吊るす細い鎖が大きく揺れ出しているので、同じく作業していた母と従業員と3人、
一目散に建物の外に逃げました。


工場前の国道を挟んだ真向いには瓦屋さんの倉庫があるのですが、パレットで3段ほどに積まれた瓦の梱りがゆらゆらと揺れ、今にも崩れそうです。
電線も大縄跳びのようにブラブラと波打ち、走っている車も異変に気付いたのか、路肩へ車を寄せて止まっていました。

私は過去に中越地震中越沖地震の2つの大きな地震を経験しているため、その2つと同じ位は揺れているな、と感じた(中越地震震源近くにいたためもっと強い揺れだったがそれはさておき)のですが、その2つの地震と明らかに違うと感じたのは、揺れの長さでした。

長い揺れでした。
いつまでも水に浮かんだ板の上に立たされているような、心地の悪さを覚えています。
あまりにも長く揺れているため、これは、単純な地震以上のなにか、そんなものを表す言葉は見つかりませんが、とてつもない災害が起こってしまったのではと感じました。

幸いにもこちらはライフラインの寸断にまで及ぶ被害はありませんでしたので、電気も通ったままでした。

揺れが収まり工場へ戻るなり、急いでラジオをつけると「震源三陸沖」「津波がきます!至急避難してください!」「高さは6メートル」

確か地震直後はこのような事が連呼されていたと思います。

それから十分少々、すると今度は予想される津波の高さが10メートルにもなると伝えだしており、
一体どうなっているのだろうか、どうか、どうか最小限の被害で止まっていてほしい。と願う事しか出来ませんでした。

終業後、テレビをつけるとおよそ信じられない映像が次々と映し出され、ただただ呆然となり、心を痛めるばかりでした。

その時から続々と報じられる、あまりに辛い、目を覆いたくなる深刻なニュースに恐怖しながら、余震に怯えながら、その日はなんとか眠りにつきました。
が、明け方ころにこちらのほうにも大きな地震があり、飛び起きてしまいました。→【長野県北部地震http://matome.naver.jp/odai/2130003171547749101
この地震にも相当に怖い思いをさせられました・・。


それからあの原発の非常事態です。
この数日間に味わった暗い気分は、一生忘れることは無いと思います。

三条市にも南相馬市から、大勢の方が避難されてきました。
当時、週2、3回ですが体育文化センター2階にあるトレーニング室に通っていた私は、同建物の3Fに避難されている方を何度かお見かけしていました。

住んだ故郷から突然に、知らずの土地、決して快適などとは程遠い場所に避難を余議なくされた方々の心痛は筆舌に尽くしがたいものであったことと思います。

今こうして生きていること、家族・友人・妻と一緒にいられるこの日常の幸せに改めて感謝し、私自身は非常に小さな歯車の一つでしかありませんが、東北のため、日本のため、復興に向けてしっかりと働いていこうと思いを新たにした次第です。

被災された皆様に、一日も早く平穏な日々が訪れることをお祈りいたします。